【焼酎の歴史】大正時代 〜新式焼酎とは〜
連続式蒸留器の発明
甲類焼酎と乙類焼酎が分類されるようになったのは、1949年(昭和24年)。
甲類焼酎と乙類焼酎の違いは、
甲類焼酎=連続式蒸留器
乙類焼酎=単式蒸留器
という使用する蒸留器による違いによるものです。
ただ、江戸中期から焼酎は国内にて製造しており、蒸留器は単式蒸留器。
つまり元来、焼酎といえば乙類焼酎でした。
世界も同様です。
蒸留酒は誕生から単式蒸留器でずーっと製造されていました。
連続式蒸留器は、世界的な重工業発展の中で1826年(文政9年)にスコットランドで発明されます。
日本に入ってきたのは1894年(明治27年)。
ただ、ここで疑念が湧きます。
それは、1894年(明治27年)から1949年(昭和24年)の55年もの間、連続式蒸留器で製造された焼酎はなかったのか?
ということ。
答えは、ちゃんと存在していました。
当時の呼称は「新式焼酎」。
しかし、「新式焼酎」誕生に至るまでのプロセスは平坦なものではありませんでした。
国産軍需用アルコール製造の要請
幕末から明治期は、豪放磊落(ごうほうらいらく)な志士の英雄話も手伝い、憧れが強く語られる時代です。
坂本龍馬に西郷隆盛。なんとなく親しみがありますよね。
しかし、そんな幕末から明治期というのは、戦争に明け暮れた時代でもあります。
鳥羽・伏見の戦いの内乱から始まり、薩英戦争なんかも勃発。
倒幕を果たした後は西洋から帝国主義を吸収し、戦争へと突き進み始めます。
重工業が勃興していた当時は武器も強大で、「弓」「槍」の世界ではありません。
巨大な大砲がメイン。
そして、それらを効率良く動作させる燃料の供給が勝敗を分けるカギです。
倒幕のメインプレーヤーだった薩摩は、国内でいち早く軍需用燃料に着目。
他藩よりも早くアルコール製造に着手しています。
ただ、倒幕のみが軍需用アルコール製造のインセンティブというわけではなく、外圧に晒されやすいという地理的な理由によるものでありますが。
薩摩のストロングポイントは2点。
アルコール製造には蒸留技術の知識が必須ですが、薩摩は焼酎造りが他所より盛んで、すでにその技術を習得済みかつ、高度であったこと。
もう一点は、アルコール製造に使用する原材料。当時盛んに栽培されていた甘藷(サツマイモ)をふんだんに使用できたこと。
この2点によって薩摩藩は軍需用アルコールを他藩に先駆けて大量保有することになります。
このような武装化が幕府への戦争抑止力になったことは間違いありません。
明治政府においては、1894年(明治27年)に東京砲兵本廠板橋属廠を建設。
のちに板橋火薬製造所となったところです。
ここで連続式蒸留器が登場します。
1894年(明治27年)というと日清戦争の直前です。
軍需用アルコールが必要ですが、この製造所のみで当然まかないきれるはずもなく、あわてて、宇治に火薬製造所を建設。
しかし、供給には間に合わず結局、軍需用アルコールはドイツからの輸入に頼りました。
日清戦争はことなきを得ますがその後、ロシアが南下を始め、日露戦争への機運が高まります。
政府は覚悟を決め、大規模アルコール工場の建設を計画。
下記6工場を矢継ぎ早に建設。
〈明治39年〉 大日本製薬
〈明治40年〉 富士醸造製造所 神谷酒造東京工場 出水酒精
〈明治41年〉 肥後酒精 日本酒精
まさに乱立といってもいいくらいですね。
日本の連続式蒸留器の導入は、国産軍需用アルコール製造の要請によるもの。
焼酎用ではかったのです。
あまりにも早い軍需用アルコール市場からの退場
ところで。日本は日清戦争に勝ち、台湾を領有することになりました。
温暖な台湾は、サトウキビ栽培が盛んです。
そこで、製糖工場を建設し、台湾の産業の勃興として砂糖の大量製造を始めたのです。
白い砂糖を精製すると廃糖蜜(はいとうみつ)という副産物が生じます。
清酒造りにおける酒粕のようなものですね。
しかし、この廃糖蜜に意外な使い道が。
それは、アルコール製造の原材料。
かつ、廃糖蜜は焼酎の原材料として、他の芋や麦、米と比較して圧倒的にアルコール製造に向いているのです!
理由は、廃糖蜜自体が糖分であるために、そのまま発酵させればアルコール化するからです。
ラム酒と同じですね。
ラム酒はさとうきびを原料とする蒸留酒ですが、焼酎や清酒で必要な麹を使わず、自然発酵が可能です。
廃糖蜜は副産物とはいえ、廃棄物ですから、タダ同然。
すると本格的に製糖工場がアルコール工場も兼ねるようになり、軍需用アルコールを日本に輸入し始めたのです!
国産工場は台湾製に対して価格競争で勝てるべくもなく、当局が乱立させた国産アルコール工場は、敢え無く軍需用アルコール市場から退場させられたのでした。
困った国産アルコール製造所。
余剰生産に頭を悩ませます。
すると、愛媛県宇和島にあった日木酒精の担当者が名案を思いつきます。
それが焼酎への「鞍替え」だったんです。
担当者は、当時の焼酎の税法に「度数は30度、35度、40度、45度の4種」とあることに着目。
蒸留機の垂囗でこれらの各変数に薄めて、国税当局に査定を受けることを思いたのです。
国税当局の宿願とは
話を明治初期に戻します。
倒幕を果たした藩閥官僚政権は、近代国家を指向し富国強兵のみちを歩みはじめますが、お金がない!
今まで産業といえば鉄工業と農業くらいなものですから、当然といえば当然。
そんな国税当局は清酒醸造業に目をつけ、江戸時代そのままに酒税を徴税します。
明治7年の酒税の全工業に対する徴税率は、なんと16.4%を占めていました。
そんな酒税の依存度に恐れをなした当局のエピソード。
明治期の様々な近代化の中に「職業選択の自由」がありますが、酒造業は除外されます。
理由は、勝手に「職業選択の自由」によって他業種に鞍替えし廃業し、財源が消失することを当局は恐れたわけです。
令和の今でも清酒産業は、新規参入は原則NG!という前近代的な規制に保護されていますが、この時代の当局の後ろめたさ(廃業しなかったお礼?)が起因しているかもしれませんね。
国税当局の清酒醸造への依存は続きます。
明治以降は、戦争が続きますから国税当局は頭を抱えます。
戦争が始まると統制をやり始め、決まってコメ不足に陥るからです。
コメが無いと清酒醸造ができない!
当時、主食であるコメは上級市民の食べ物でしたが、それでも主食であるコメをわざわざ酒米にするわけにはいきません。
安定的に徴収できる酒税。
「原材料コメ以外の酒」の創造は税務当局の、否、国家の宿願でした。
新式焼酎の誕生
そんなところに、タダ同然の廃糖蜜を原材料にした、それも大量生産可能なアルコールの提案があったわけです。
国税当局にとっては、まさに渡りに船。
承認しない理由も余裕もありません。
WIN-WIわけですから。
この廃糖蜜原材料のお酒を焼酎とすることを承認。
その呼称が「新式焼酎」。
発明(?)した日本酒精はこの新製品を「日の本焼酎」と命名して販売します。
1910年(明治43年)のこと。
結果は、大ブレイク。需要が追いつかないくらい。
これをみた他の国産アルコール工場はもちろん、追随します。
それどころか、一部の南九州の焼酎酒造場も模倣を始める始末。
甲類焼酎の父、「新式焼酎」が産声をあげたのでした。
この記事を書いた人
SHOCHU PRESS編集部
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