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  • 芋焼酎の原料・サツマイモの歴史と特徴

    芋焼酎の原料・サツマイモの歴史と特徴

    芋焼酎の原料であるサツマイモは、日本の食文化と農業、そして焼酎造りの歴史と深く結びついた作物です。
    その伝来から普及、そして焼酎原料として重視される理由までをたどることで、芋焼酎の本質が見えてきます。

    この記事では、サツマイモの歴史と特徴についてご紹介します。

    サツマイモの日本伝来と薩摩への定着

    サツマイモが日本にもたらされたのは、慶長10年(1605年)、琉球王国を経由してとされています。
    その後、琉球が島津藩の支配下に入る過程で、サツマイモは鹿児島にも伝来。
    実際、慶長16年(1611年)には、琉球から島津藩への貢納品の中に「からいも(サツマイモ)」が含まれていた記録が残っています。

    当初、島津藩ではサツマイモを藩の管理下で試作し、農民による栽培は制限されていました。
    そのため、「体に悪い作物である」といった風評も広がり、すぐには普及しなかったとされています。
    一方で、フィリピンのルソン島から直接薩摩に伝来したという別系統の伝承もあり、サツマイモの伝播には複数のルートが存在した可能性があります。

    鹿児島県内には、サツマイモ伝来を伝える石碑がいくつか現存。
    種子島の「日本甘藷栽培初地之碑」や、山川町にある継川利右衛門を顕彰する碑などがその代表例です。
    これらの史料から、17世紀初頭には南九州各地でサツマイモ栽培が始まっていたことがわかります。

    全国への広がりと救荒作物としての役割

    17世紀に入ると、サツマイモは薩摩だけでなく、平戸や瀬戸内海沿岸、九州各地へと徐々に普及していきます。
    特に、やせ地や台風被害を受けやすい地域でも育ちやすいという特性から、九州南部や島しょ部では重要な作物に。

    そんなサツマイモが全国的に注目されるきっかけとなったのは、享保17年(1732年)の大凶作。
    この年、深刻な虫害により全国で多数の餓死者が出ましたが、すでにサツマイモを栽培していた地域では被害が比較的軽微でした。
    この事実を受け、幕府はサツマイモの有用性に注目し、各地で栽培が奨励されるようになります。

    一般には青木昆陽が普及の立役者として知られていますが、実際にはそれ以前から各地でサツマイモは栽培されており、多くの無名の人々の努力によって広まっていった作物でした。
    サツマイモは、まさに庶民の命を支えた「救荒作物」だったのです。

    サツマイモの特性と栄養面の特徴

    サツマイモの特徴は収量が多く、栽培しやすい一方で、穀類と比べるとカロリーやたんぱく質、脂質、カルシウムが少ない点。
    そのため、サツマイモを主食とする地域では、小魚などのたんぱく源と組み合わせた食生活が自然に形成されていくことになります。

    また、水分が多く腐りやすいため、貯蔵や輸送には工夫が必要でした。
    “いも穴”や”むろ”といった保存法、さらには干し芋(切干し)などの加工法が生み出されたのも、こうした特性への対応策といえます。

    芋焼酎の原料としてのサツマイモ

    芋焼酎造りにおいて重要なのは、サツマイモのでんぷん含有量。
    でんぷんが多いほど発酵に適し、焼酎のアルコール収量も安定します。
    しかし、サツマイモは重量取引されるため、水分が多い品種ほど見た目の収量が増えやすく、焼酎向きとは限りません。
    そのため、原料芋の選定は焼酎の品質を左右する重要な要素となっています。

    現在では、用途に応じてさまざまな品種が栽培されていますが、焼酎やでんぷん原料には、でんぷん含有量の高い品種が用いられています。
    芋焼酎の味わいの違いは、品種や栽培条件、収穫時期の違いにも大きく影響されるのです。

    サツマイモと芋焼酎文化

    サツマイモは、厳しい自然条件の中で人々の命を支え、やがて芋焼酎という独自の酒文化を育てました。
    焼酎原料としてのサツマイモを知ることは、単なる作物の知識にとどまらず、南九州を中心とした日本の生活史や食文化を理解することにもつながります。

    芋焼酎の一杯には、サツマイモが歩んできた長い歴史と、人々の知恵と工夫が凝縮されているのです。

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  • 粕取焼酎と醪取焼酎の違いとは?明治〜大正期にたどる焼酎の原点

    粕取焼酎と醪取焼酎の違いとは?明治〜大正期にたどる焼酎の原点

    17世紀後半以降、日本では焼酎の製造方法が徐々に記録されるようになります。
    『童蒙酒造記』『本朝食鑑』『和漢三才図絵』『万金産業袋』などの文献には、当時の焼酎造りの様子が詳しく記されています。

    焼酎造りは、鹿児島県や宮崎県といった南九州が盛んといわれています。
    しかし、17世紀後半から全国的に焼酎が作られてきた事実がこれらの書物によって記されています。

    この時代の一般的な焼酎は、主に酒粕や変敗酒(品質が劣化した清酒)を原料として造られていました。
    なかでも全国的に広く普及していったのが、酒粕を蒸溜して造る粕取焼酎です。

    粕取焼酎と稲作文化の深い関係

    粕取焼酎は、日本の稲作文化と密接に結びついていました。
    日本酒を製造する中で、アルコール分が抽出されたお米の副産物である酒粕のリサイクルは、課題でした。

    酒粕は、肥料として有用でしたが、当時はアルコール分が高く、そのまま田に施すと稲の根に悪影響を及ぼしてしまいます。
    そこで当時の人たちは、酒粕を一度蒸溜して焼酎として祭礼などで飲用し、蒸溜後に残った粕を肥料として再利用するという方法を生み出しました。
    この合理的な循環により、粕取焼酎は農村部を中心に全国へと広がっていったと考えられています。

    鹿児島で発展した「醪取焼酎」という系譜

    一方、鹿児島では事情が異なっていました。
    地酒である清酒の生産量が少なかったため、酒粕を原料とする粕取焼酎はほとんど発展しなかったのです。

    その代わりに主流となったのが、原料を直接仕込んで発酵・蒸溜する醪取焼酎。
    初期には米や雑穀が使われ、18世紀前半頃からは、サツマイモと麹を混ぜ、水とともに仕込む方法が一般化していきます。

    ただ、この製法は、一度の仕込みで発酵を完結させるため、雑菌の繁殖に酵母の働きが追いつかず、アルコール生成が十分でないことも多くありました。
    まだまだ、技術が未熟だったわけです。
    その結果、醪が腐敗したり、味わいが安定しない焼酎になることも少なくなかったとされています。

    技術的に不安定だった初期の芋焼酎

    このような背景から、安定した芋焼酎造りは長らく技術的に難しいものでした。
    ただ、20世紀初頭までは焼酎の多くが自家消費用として造られており、市場での競争や品質の均一化が強く求められているわけではありませんでした。
    そのため、大きな技術革新が起こることなく、伝統的な製法が受け継がれていくことになります。

    こうした醪取焼酎は、全国的に見ると南九州を中心に偏在しており、地域性の強い焼酎であったことが分かります。

    【「粕取焼酎と醪取焼酎の違い」比較表】

    項目粕取焼酎醪取焼酎
    主な原料酒粕・変敗酒米・雑穀・サツマイモ+麹
    製法の特徴酒粕を蒸溜して造る原料を仕込み、発酵した醪を蒸溜
    発展した地域全国(特に稲作地帯)南九州(特に鹿児島)
    清酒との関係非常に深い(副産物の活用)比較的薄い
    農業との関係蒸溜後の粕を肥料に再利用直接的な関係は少ない
    技術的安定性比較的安定しやすい雑菌繁殖などで不安定になりやすい
    味わいの傾向素朴で軽快なものが多い濃厚で力強いものが多い
    主な用途祭礼・農村での飲用自家消費用が中心
    歴史的役割全国的に普及した初期焼酎芋焼酎文化の原型

    近代焼酎への道をひらいた過渡期

    17世紀後半から始まった、粕取焼酎と醪取焼酎の製造について違いはお分かりいただけたでしょうか。
    全国的に焼酎は、日本酒の副産物である酒粕をリサイクルしたお酒として全国的に知られるようになったのでした。
    一方、鹿児島や宮崎といった南九州では、原料を直接仕込んで発酵・蒸溜する醪取焼酎が発達。

    この過渡期を理解することは、現在の焼酎文化をより深く味わうための重要な手がかりといえるでしょう。

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  • 大分麦焼酎が全国区になった理由

    大分麦焼酎が全国区になった理由― 三和酒類「いいちこ」と二階堂酒造に学ぶ“麦焼酎革新史” ―

    焼酎といえば芋のイメージが強かった時代に、「麦焼酎」という新しい選択肢を全国に定着させたのが大分県です。
    なかでも現在の麦焼酎市場を形づくった存在が、宇佐の三和酒類(いいちこ)と、日出町の二階堂酒造
    この2社は、ともに“減圧蒸留”と“酒質設計”を武器に、それまでの本格焼酎とは異なる価値を打ち出しました。

    ここでは、大分麦焼酎が躍進した背景と、その中核を担った2大メーカーの技術と思想を深掘りします。

    三和酒類(いいちこ)|「下町のナポレオン」を生んだ技術革命

    四つの酒蔵から始まった三和酒類

    三和酒類は1958年、宇佐周辺の四つの酒蔵
    (熊埜御堂酒造・赤松本家酒造・和田酒造・西源十郎酒造)が合同して誕生しました。

    当初は清酒・粕取り焼酎を中心にしていましたが、1970年代に入り、同じ大分の二階堂酒造が麦焼酎で評価を高めていく姿を目の当たりにし、「麦焼酎」という新市場に本格参入します。

    1978年、わずか9kl(50石)の試験製造からスタートした麦焼酎は、そこから毎年倍増に近い勢いで成長。
    7年後には年間1万7000klを超え、全国トップクラスのメーカーへと急成長しました。

    爆発的成長を支えた「減圧蒸留」という選択

    三和酒類が重視したのは、麦の軽やかさを最大限に引き出す酒質設計でした。

    従来の常圧蒸留では、高温によってフーゼル油や焦げ臭が出やすく、香味に重さが残ります。
    三和酒類はここで減圧蒸留を採用。真空状態で低温蒸留することで、

    ・雑味が出にくい
    ・フーゼル油が極端に少ない
    ・軽くクリアな酒質

    を実現します。

    その後、イオン交換樹脂による精製でわずかな突出香味のみを整え、必要に応じて非処理原酒をブレンド。
    「削りすぎないクリーンさ」をつくり出しました。

    工場設計も“香味最優先”

    三和酒類の工場は、当時としては異例のスタイルでした。

    ・杜氏制ではなく技術スタッフ主導
    ・データ管理と官能評価を徹底
    ・ノースモーク運動による空気管理
    ・麦を55〜60%まで磨く原料処理
    ・低温酒母による香り重視の発酵

    そして特徴的なのが、貯蔵をほとんど行わず、3か月以内に瓶詰めする方針です。
    減圧蒸留の麦焼酎は「新酒こそが最も香り高い」という思想に基づき、あえて熟成型とは逆を選びました。

    これが「いいちこ」の、軽く、やさしく、飲み疲れしない個性を決定づけています。

    二階堂酒造|「純粋麦焼酎」という発想の原点

    戦後の模索から麦焼酎へ

    日出町の二階堂酒造は、戦前は清酒蔵でしたが、戦後の米不足を機に焼酎へ転向。
    当初は米・麦・芋・とうもろこしなど、あらゆる原料を試しながら小規模生産を続けていました。

    1951年の記録にはすでに麦焼酎の仕込みが確認されていますが、本格的に麦へ舵を切るのは1970年代に入ってからです。

    転機となったのは、「麦は体にやさしい」という世間の声。
    ここから**麹まで麦で造る“純粋麦焼酎”**へと方針を転換します。

    東京市場が動いた「くせのなさ」

    1974年頃から、二階堂の麦焼酎は東京で評価を伸ばします。

    ・くせが少ない
    ・さらりと飲める
    ・水割り・お湯割り・ロックに合う

    という特徴は、それまでの本格焼酎像とはまったく異なるものでした。

    出荷量は5年で一気に数倍に拡大。
    やがて二階堂は「麦焼酎といえば二階堂」と認識される存在になります。

    二階堂も減圧蒸留・精製を採用

    二階堂酒造も蒸留は減圧方式。
    さらにイオン交換樹脂で雑味を整え、酒質を安定させています。

    糖類についても、

    ・微量添加タイプ
    ・無添加タイプ

    の両方を用意し、飲み手の嗜好に委ねる姿勢をとっています。

    この「選択肢を用意する設計思想」も、都市型市場で支持を広げた大きな要因でした。

    大分麦焼酎が切り拓いた“現代焼酎”というジャンル

    三和酒類と二階堂酒造に共通するのは、

    ・減圧蒸留による軽快な酒質
    ・精製技術の積極導入
    ・飲みやすさを最優先した設計
    ・若年層・都市層を意識した味づくり

    です。

    これは、
    「土地の酒」から「全国市場の蒸留酒」へ
    焼酎を進化させた発想でもありました。

    まとめ|大分麦焼酎は“焼酎の近代化”だった

    大分の麦焼酎は、単なる一地方の成功例ではありません。
    それは、

    ・技術による酒質設計
    ・飲み手起点の発想
    ・蒸留酒としての再定義

    という、日本の焼酎史における大きな転換点でした。

    三和酒類の「いいちこ」と、二階堂酒造。
    この2社が築いたスタイルが、現在の“飲みやすい焼酎”の原型となり、焼酎を全国酒へと押し上げたのです。

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