【焼酎の歴史】バクダン・カストリ時代
「日の本焼酎」大ブレイク後の業界
甲類焼酎の父、「新式焼酎」が産声をあげた話は、「甲類と戦争の意外な関係」でしました。
その後のお話です。
その「日の本焼酎」が新式焼酎のブームを巻き起こした直後は、新式焼酎工場の数はごくわずか。1ケタ台でした。
しかし、「日の本焼酎」の空前の大ブレイクもあって、追随者が増加。
1918年(大正7年)には、実に65もの工場が全国に作られました。
これは、当時も悩まし続け、1918年(大正7年)に暴動事件までに発展した、コメ不足が影響しています。
米穀事情がさっぱり改善されず、酒米にまわすほどに余裕がないから「米を原料としない」新式焼酎が広く普及し、ビジネスチャンスと捉えた企業が増えたのでした。
また、明治期から続く、国を挙げての「殖産興業」にともない、企業意欲も燃え上がったことも、一因といえるでしょう。
実は薄利多売の新式焼酎
ただ、全国に工場が作られ始めると、だんだん各社の経営状況は苦しくなります。
理由は下記。
導入期を華々しいデビューで飾った新式焼酎。
この時期は、成長期にあたります。
成長期は、参入者が増え、競争が激しくなります。
商品力を上げるなど、切磋琢磨して競争に挑むのは、健全な話。
ただ、新式焼酎は商品の特性として、他の商品とは異質だったのです。
新式焼酎は、連続式蒸留機で蒸留。
連続式蒸留機は、アルコール濃度の練度を高めていきますので、完成した原酒はほとんど無味無臭。
その原酒を、割り水して商品化するため、香りも味わいも無味無臭。
他社商品との差別化ポイントが、創造しづらいのです!
商品の差別化ポイントがない以上、価格競争に陥るのは自明のこと。
新式焼酎と言うのは、薄利多売に陥りやすい商品だったのでした。
そんな矢先、1920年(大正9年)第一次世界大戦の講和条約調印とともに、戦後パニックが襲来。
物価は半価以下に暴落、一転して不況のドン底につき落とされます。
業界再編の動き
それぞれの工場は、生き残りをかけて、統合・合併に向けて動き出します。
業界再編です。
これは現代でも同じですよね。
その再編は、1924年(大正13年)に九州エリアから始まり、1931年(昭和6年)の全国新式焼酎聯盟会の発足まで続きました。
ちなみに、その時の全国新式焼酎聯盟会の会員は、16社ほどだったようです。
乱立から再編成へと大きな展開を余儀なくさせられたのが、大正末期から昭和初期の「焼酎業界」でした。
ここで注目は、「焼酎業界」といったのこと。
明治後期から昭和初期まで、焼酎といえば、新式焼酎、つまりは甲類のことを指すことが多かったのです。
実際、新式焼酎の工場は、九州はもとより、関西、関東はもちろん、北海道までカバーしていました。
国家総動員状態に飲まれた、酒類業界
1935年(昭和10年)になりますと、戦時色が濃厚に。
アルコールを生産する焼酎業界も関与を期待されます。
これは幕末と同様ですよね。
アルコールは、燃料としての側面を持っていますから。
そんな中、1937年(昭和12年)2月にアルコールの専売制が、強行されることになります。
軍用燃料に無水アルコールを混用する必要からです。
しかし、新式焼酎は、ギリギリのところで専売制を免れました。
業界に理解の深かった石渡荘太郎氏が、主税局長に就任したから、というのが大方の理由です。
戦争が始まると、軍用燃料アルコール工場が13ケ所設置された一方、民営工場もアルコール生産を担うようになります。
1944年(昭和19年)から終戦時になると、焼酎工場をはじめ、ビール工場、清酒工場まで、すべてアルコール製造にかり出されます。
国家総動員状態だったので、酒類業界もその波に飲まれたワケです。
ところで、終戦後、市場では食糧も十分ではない中、お酒ももちろん不足します。
そこで、国家総動員状態で製造された軍用燃料アルコールを、闇市場が注目するのです。
ここから、今回の主人公の登場です。
バクダン、カストリの登場
ガソリンの代用品として増産に努めた結果、軍用燃料用アルコールは、生産力が上がり、だぶつきます。
終戦時は多大な在庫を抱えてしました。
それはそうですよね。
ただ、もともと燃料アルコールには、酒好きに飲まれるのを防ぐため、メチルアルコールが混ぜられていて、不慮の誤飲防止のために、薄紅色に着色までされていたのです。
そして、このメチルアルコールは、アルコールの中でも、毒性が強い。
メチルアルコールを飲むと、視神経を破壊し失明したり、大量摂取では死を招きます。
飲用のアルコールでは断じてないのです。
が、しかし。
この軍用燃料アルコールを水でうすめて、闇市の一杯飲屋で提供するようになったのです!
ご丁寧に、バレないように色を抜いたり、くさみをとって。
その結果、頭痛、めまい、嘔吐、腹痛、下痢などの中毒症状に陥り、失明した人が続出。
1946年(昭和21年)には1848人の死亡者を出したといいます。
この酒に似たものは、「バクダン」と呼ばれました。
名前の由来は、を飲んだとたんに、体の中が急にパッと熱くなる、から。
バクダンのその後
さすがに、死亡者が出たとなると、人々はバクダンを飲むのを控えるようになります。
しかし、お酒不足は続きます。
そして、その代用として、1946年(昭和21) 年、「カストリ」が登場します。
まだまだ混乱は続くわけです。
カストリは、密造酒の一種。
本来、カストリは粕取焼酎のことですが、密造酒のカストリは甘酒麹と蒸米と水を混ぜて発酵させたドブロクを、簡易な蒸留器で蒸留したものです。
ドブロクは濁酒のことで、昔はにごり酒、白馬とも呼ばれたもの。
日本酒の製法に従って造ったもろみをベースに、製造されます。
素人が造るので、品質は祖雑。
腐敗や乳酸発酵による酸味が出たり、衛生的でなかったことが多かったようです。
1947年(昭和22年)の密造酒製造量は55万キロリットルほどであったといわれてます。
すごい量ですよね。
そして、残念ながら、「バクダン」や「カストリ」は焼酎の仲間だと思われていたのです。
このことは、焼酎が、ヨーロッパの蒸留酒と比較して、存在感が軽い感じがする理由の一つでもあったのです。
焼酎の力が発揮される好例
その後、当局は、悪質極まりない、密造酒の命脈をたつことを決意します。
当然といえば当然。
国民の健康のためでもありますが、ちょっと意地悪な視点からみると、税収が細るのを、手をこまねいてみているわけにもいきませんので。
食糧の乏しいなかから、甲類メーカーに原材料を提供、焼酎を造らせたのです。
1952年(昭和27)6月から焼酎甲類として、生産量が急増を続けます。
1956年(昭和31年)には、最高の25万キロリットルを達成。
この頃には、ようやく、密造酒が減少に転じます。
ところで、この時期、「バクダン」や「カストリ」を駆逐して、安定して市場に供給できたのは、焼酎のストロングポイントである、原材料の多様さにあります。
本来、焼酎の原材料は、糖蜜やサツマイモ、切干しサツマイモですが、デンプン質であれば、あらゆる物質が原材料として使用が可能なのです。
食糧の乏しかったこの時は、ドングリ、キクイモ、ソテツの実、フスマ、デンプン粕などで代用したそうです。
どのような状況下においても、焼酎の力が発揮される好例といえます。
とはいいましても、品質は均一性を欠くことがあったようです。
が、しかし。
その解決策として、サイダー割り、オレンジ粉末混ぜ、梅割り、シロップ割りなど、多様な飲み方が普及。
今でも、味わい深い居酒屋では、多様な割材が活躍しているのは、その頃の名残なのでした。
この記事を書いた人
SHOCHU PRESS編集部
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