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高倉酒造ではサツマイモの仕入れは、その日の仕込み量だけの画像

【焼酎の歴史】さつまいもの伝来ルート

芋焼酎の原料に使われている、さつまいも。
焼酎の原料以外にも、スイーツの定番として女子に大人気です。
そんなさつまいもですが、実は、江戸時代に伝わった外来種。
今回は、さつまいもの伝来ルートをご紹介します。

きっかけはコロンブス

きっかけはコロンブスの画像

さつまいもの原産地は、メキシコまたはペルーなどの中南米。
紀元前2000年頃には存在していたといわれています。

世界にさつまいもが広がったのは、アメリカ大陸を発見したコロンブスがきっかけ。
ヨーロッパからアフリカ、アジアに広がります。
日本へのルートは、当時スペインの植民地であったフィリピンから中国の福建省を経て、沖縄(当時は琉球)に持ち込まれた説が有力。

沖縄に持ち込まれたのは1604年の画像

沖縄に持ち込まれたのは1604年

かつて、沖縄と中国の間には、定期的に沖縄から中国皇帝に貢物を送る進貢船がありました。
その船の事務長であった野國總管(のぐにそうかん)が、1604年(慶長10年)にさつまいもの苗を琉球に持ち帰ったとされます。

その後、しばらくは、沖縄にとどまります。
さつまいもが鹿児島(当時は薩摩)に定着するのは、沖縄への伝来からおよそ100年も後のことになります。

ちなみに野國總管は「ンムウスー」(いも大主)と尊称され、地元の嘉手納町に像が立てられています。

沖縄から日本に持ち込まれたルート

沖縄から日本に持ち込まれたルートについては、説が分かれています。
有力なのは2つ。それぞれご紹介します。

前田利右衛門の画像

前田利右衛門説

揖宿郡山川郷(現在の指宿市山川地区)の前田利右衛門が、1705年(宝永2年)に鹿児島に持ち帰ったとする説。

漁師をしていた前田利右衛門は、鹿児島と沖縄の往来がありました。
沖縄ですくすくと育つさつまいもを見て鹿児島での普及を思いつき、鉢植えにして持ち帰ったといわれています。

持ち帰ったさつまいもは根を伸ばし、非常な勢いで普及。
稲作には不向きな鹿児島のシラス土壌という土地にもよくでき、栽培は容易であり、台風に対しても強い。
さつまいもは、天災から命の綱をつなぎとめてくれるような、大切な救荒作物になります。

1732年(享保17年)、享保の大飢饉が日本中を襲いますが、鹿児島の人々は、広く普及したさつまいものおかげで影響を受けなかったといわれます。

鹿児島にさつまいもをもたらした前田利右衛門は、「甘藷翁」と崇められました。
今でも鹿児島県内には、前田利右衛門の功績を称える碑や遺跡が数多くみられます。

前田利右衛門の供養碑の画像

〈前田利右衛門の供養碑〉

画像提供:鹿屋市役所 市長公室 政策推進課

鹿屋市串良町では、「利右衛門の供養碑」が立てられています。

徳光神社の画像

〈徳光神社〉

画像提供:指宿市役所観光課

また、前田利右衛門が生まれた指宿市山川には「徳光神社」があります。
徳光神社の境内には、前田利右衛門の墓とともに功績をたたえる碑があり、本殿には毎年の収穫期、採れたばかりの芋が奉納されるといいます。

-参考 : いぶすき観光ネット

日本を代表する民俗学者である柳田国男氏の著書にも記述があるので、ご紹介します。

「夫(さつまいも)をヤマトに招き入れた薩州児水の継川利右衛門」
-引用 : 柳田国男「海南小記」p5,創元社,1940年

ほかにも、鹿児島市吉野町東菖蒲谷に遺徳碑があります。

焼酎前田利右衛門の画像
極め付きは、前田利右衛門が生まれた指宿市の指宿酒造から、その名を冠した焼酎が発売。

この前田利右衛門の説はとても有名ですが、この圧倒的な史跡などの後押しがあるからでしょう。
種子島説の画像

種子島説

1698年(元禄11年)に尚貞王(しょうていおう)から、種子島久基に対してさつまいもが贈られたとする説。

種子島家19代当主である種子島久基は、50年以上にわたって島津藩の家老職など藩の要職を務めた人物。
藩の重役として琉球に関する政務を行なっていたときにさつまいもの話を知り、尚貞王に要望したといいます。

贈られた後、種子島久基は家老の西村権右衛門に栽培を指示。
それを西之表村下石寺の休左衛門に栽培させます。

種子島の島の主である種子島家の事績を記した「種子島家譜」に、次のような記述があります。

今年(元禄11年)中山国王、甘藷一籠を尹時に贈る、家老西村権右衛門時乗に命じて吾が采邑石寺の野に殖えしむ。日本甘藷の権輿(はじめ)なり

日本甘藷栽培初地之碑の画像

〈日本甘藷栽培初地之碑〉

画像提供:ふるさと種子島

現在、西之表市にある下石寺には「日本甘藷栽培初地之碑」が建っています。
碑には、

「本邦甘藷の栽培は、実に我が種子島に創まり、種子島は、我が下石寺を以て試作の地と為す。故に題して、日本甘藷栽培初地之碑と曰う」

と解説されています。

また、栖林神社には種子島久基が祀られていいて、カライモ神社といわれています。

各地にいる芋翁

さつまいもは、飢饉に襲われることの多かった江戸時代の貴重な救荒作物。
よって、前田利右衛門と同様、地元で普及させると有名になり、崇められることが多いようです。
そんな各地にいる芋翁をご紹介します。

甘藷翁 原田三郎の画像

〈原田三郎右衛門顕彰の記念碑〉

画像提供:対馬市教育委員会

【甘藷翁】原田三郎右衛門(長崎県対馬市)

水田の少ない対馬藩では、食糧不足が長年の悩みの種。
その解消のため、痩せた土地でも育つサツマイモの普及を決断。
1714年(正徳4年)に、長崎からさつまいもを買い付けたのが始めといわれています。
その翌年、1715年(正徳5年)に、伊奈郷久原村の原田三郎右衛門が作付けに成功。
各地の栽培の指導も任せたところ、全島にサツマイモが普及したといわれています。
人々を食糧不足から解放した孝行な芋として、対馬ではサツマイモのことを「孝行芋」と呼ぶように。

-参考 : 広報つしま, 2019年12月

井戸神社の画像

〈井戸神社〉

画像提供:井戸神社

【芋代官】井戸平左衛門(島根県大田市)

1731年(享保16年)、井戸平左衛門は19代目石見(島根県)の代官に任命されます。
領内を見回ると、あまりの窮乏ぶりに驚きます。
そのため、自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに、幕府の許可を待たず代官所の米蔵を開いて米を与えたと伝えられています。
そして、さつまいもの栽培を他の地先駆けて導入。
その後は、領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。
この様な功績を頌える碑が地元大田市はもとより鳥取県、広島県の各地に500基以上建てられています。

-参考: 井戸神社WEBサイト
甘藷地蔵の画像

〈甘藷地蔵〉

画像提供:いよ観ネット

【甘藷地蔵】下見吉十郎(愛媛県今治市)

瀬戸内海の大三島(おおみしま)出身の下見吉十郎は、不幸が重なり諸国行脚に旅立ちます。
その途中の鹿児島で、さつまいもが痩せた土地でも育つ救荒作物だと知ります。
当時の鹿児島は、芋の持ち出しを固く禁じていましたが、仏像の中に隠してさつまいもの持ち帰りに成功。
1711年(正徳元年)、島民に配って栽培法を伝授し、食糧不足で悩む人々を救ったといわれます。
享保の飢饉の際、瀬戸内海にも多数の死者が出ますが、大三島の周辺では1人の餓死者も出さなかったといいます。
毎年旧暦の9月1日には甘藷地蔵祭が催されるなど、今でも島民に広く親しまれています。

-参考 : いよ観ネット

まとめの画像

まとめ

さつまいもは、人々を飢饉から救った救荒作物。
焼酎の原料やスイーツ以前に、人々を救う貴重な食べ物だったのですね。
また、その普及に努めた人たちは今でも崇められ、慕われているのも大注目。
今日はそんな翁の方々に感謝を込めて、芋焼酎を味わってはいかがでしょうか。

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