【焼酎の歴史】黒糖焼酎の歴史を解説します
黒糖は、芋や麦、米と同様に人気のある焼酎の原料。
ただ、黒糖を原料とした焼酎造りが許されているのは、奄美群島だけなのです。
その理由は、地理的・歴史的な背景が関係しているから。
今回は、黒糖焼酎の歴史を解説します。
黒糖焼酎とは?
奄美群島は、鹿児島市の南西370~560kmに位置する、鹿児島と沖縄の間に浮かぶ島々です。
有人島は8島。
そのうちの奄美大島(あまみおおしま)、徳之島(とくのしま)、喜界島(きかいじま)、沖永良部島(おきえらぶじま)、与論島(よろんじま)の5島で、黒糖焼酎が造られています。
黒糖焼酎とは、サトウキビが原料の焼酎のこと。
日本全国において、サトウキビを原料として焼酎造りが許されているのは、この奄美群島だけです。
これはとても注目すべきポイント。
焼酎の原料は、国税庁が「国税庁長官の指定する物品」として決めていますが、エリア的制限がある原料は、このサトウキビだけなのです。
-参考:「焼酎に関するもの」国税庁HP
黒糖焼酎の歴史
サトウキビを原料として焼酎造りが許されているのは、奄美群島だけ。
その理由は、奄美の歴史に隠されています。
かつての黒糖は、あくまでも献上品
サトウキビが中国から奄美にもたらされたのは、1610年(慶長15年)といわれています。
当時、奄美を治めていた薩摩藩は、サトウキビからとれる黒糖に目をつけます。
江戸や京大阪では、黒糖は貴重で大変な贅沢品。
高価で売れたので、莫大な富を薩摩藩にもたらします。
薩摩藩特産の特別品として、藩財政の有力な資金源に。
そんな貴重で高価で売れる黒糖を、焼酎の原料とすることはあり得るはずがありません。
当時の奄美の焼酎は、さつもいも、シイの実、ドングリ、ソテツの実などを原料としていたようです。
原料はカンショで、富裕な家では米を混ぜた。淮の実を加えると濃度が上るといった。濃度の上るのを「生まれる」といった。蘇鉄の実も使った。ナリ(蘇鉄)、米、カンショでカセという麹立てに入れて麹をつくり、カンショを煮たものを一次仕込みのヌキで醪をつくる。カセとは経(縦糸)ヌキとは緯(横糸)である。つむぎ作りの用語がそのまま焼酎つくりに使われているのは、大島ならではである。
-引用 :「奄美生活誌」,恵原義盛, 木耳社, 1973年
ただ、奄美の一部では、黒糖は使われていたという説もあります。
というのも、黒糖が原料だと焼酎造りが簡単だから。
黒糖自体が糖分なので、酵母を加えれば、そのまま発酵。
さつまいもやお米と違い、麹の力を使ってデンプンを糖分に変える必要がないのです。
幕末、薩摩藩士だった名越左源太が、奄美大島に流刑されたときに記した『南島雑話』の中にはそれを裏付けるような記述があります。
内容は、
「薩摩藩は砂糖からの焼酎造りを防ぐために、黒糖の製造期間中はすべての家々の焼酎を島役人が封印して区長の家に保管していた」
とされています。
ただ、これはあくまでも一説にすぎません。
明治期は泡盛が飲まれていた
明治以降、沖縄と奄美大島とのあいだで交易が盛んになると、沖縄の泡盛が入ってくるようになり人気を博します。
人気が定着すると、沖縄の泡盛メーカーは奄美に支店を作り、支店において泡盛式の焼酎造りを始めます。
その名残は、奄美市にある西平本家と西平酒造にみられます。
西平本家と西平酒造は、どちらも沖縄の首里にあった西平家出身の酒蔵。
首里の西平家は戦禍で廃業しましたが、奄美の両家は、泡盛から出発して、今でも奄美市で黒糖焼酎を造り続けている名門。
西平本家の先代が、喜界島に渡って酒造場を開業し、販売先を奄美大島にして事業を拡大したといわれています。
奄美に黒糖焼酎が根付いた地理的な背景
第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)、奄美群島は鹿児島県から切り離され、米軍の軍政下におかれます。
鹿児島以南エリアへの食糧の配給は、戦災のひどかった沖縄本島が優先され、奄美群島にはほとんど届かなくなります。
島民の暮らしは大変で、市販の酒を購入するどころではありません。
すると1946年 (昭和21年)11月1日、奄美群島だけの特例として、自家用酒製造が認められます。
この時に、およそ400軒の家々が、自家用酒製造に関わったといわれています。
その時の原料こそ、奄美に豊富にあったサトウキビから作られる黒糖。
黒糖自体が糖分なので、醪造りは簡単。
醪を家内製造し、その醪をもち寄り、公民館などで共同蒸留したといわれています。
このことは、奄美に黒糖焼酎が根付いた地理的な背景だといわれています。
麹を使って黒糖焼酎
1953年(昭和28年)、奄美群島の本土復帰が決まります。
まず、軍政下に許された焼酎の自家製造は、日本の酒税法によって禁止されることになります。
自家用製造がなくなると必然的に、酒類が不足します。
しかし、全面禁止するだけではすまない実情も顧慮してか、戦前より大蔵省の酒造免許をもっていた西平両家のような旧酒造場のほかに、新規申請者に酒造場の免許が認められることに。
このあたりは、明治32年の自家製造酒禁止になったケースと似ています。
自家製造が禁止され、焼酎が不足し、営業用の酒蔵が創業し始めるのです。
そのため、それ以前には、奄美と徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島あわせて11場しかなかった酒蔵が、1953年以降は25場に増えたといいます。
そして、まだ大きな問題がありました。
それは、原料。
黒糖焼酎は、サトウキビから作られる黒糖が原料です。
黒糖を原料とした蒸留酒は、日本の酒税法の分類では「ラム」に類別されてしまうのです。
しかし、戦後「焼酎」といえば自家製の黒糖焼酎を唯一のものとして親しんできた奄美の人達にとって、「それは焼酎ではない、ラ厶だ」ということも、さすがに杓子定規にすぎると判断したのかもしれません。
国税庁は、奄美だけの例外処置として、黒糖焼酎造りを認めることにしたのです。
ただ、このままの製造法ではラムとの区別がつきません。
そこで考え出されたのが、黒糖焼酎の原料に、麹を使うという妙法。
本来、黒糖は、焼酎造りで重要な糖化が不要です。
他方で、麹がなければ醸せないという焼酎の特性をうまく利用したのです。
麹を使えば、ラムと製造法において一線を画すことができるというワケなのです。
具体的には、一次仕込みと二次仕込みに麹と水を使い、そこに三次仕込みとして水に溶解した黒糖を加えて発酵、という製造法をとることになります。
ちなみに、沖縄の与那国や宮古でも黒糖を原料にした焼酎が戦後つくられた例があったそうですが、実績が少ないというのでそちらは認められなかったといいます。
以上が、奄美群島だけに許された、黒糖を原料とした焼酎造りができるようになった背景です。
まとめ
いかがでしたか。
黒糖焼酎は、奄美の地理的・歴史的な背景が詰まっていたのでした。
今日は、黒糖焼酎の豊かな香りに包まれてみてはいかがでしょうか。
この記事を書いた人
SHOCHU PRESS編集部
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