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焼酎の黒瀬杜氏をご紹介します

杜氏はお酒の最高製造責任者。日本酒の杜氏が有名ですよね。
焼酎づくりにおいても杜氏はいます。
今回は、焼酎の近代化と同時に現れた、奇跡の職能集団である黒瀬杜氏をご紹介します。

黒瀬杜氏とはの画像

黒瀬杜氏とは

焼酎の近代化と同時に現れた、奇跡の職能集団

黒瀬杜氏は、鹿児島県南さつま市笠沙(かささ)町の地名である「黒瀬」出身の杜氏の職能集団のことです。

黒瀬杜氏が生まれたのは、黒瀬地区の地形が背景にあります。黒瀬地区は農業や漁業を営むには不向きな地形。ほとんどの人は地区外で仕事をするため、職能集団を形成する土壌があったのです。
明治期後半、地区外で仕事をする人の中に、沖縄の泡盛作りを習得した人が現れ、地区の人々に広めます。
当時、南九州で焼酎酒蔵の創業が相次いで、酒蔵では焼酎作りのノウハウを習得した職人を探していた折、黒瀬の職能集団への需要が一気に高まったのでした。

黒瀬杜氏は、焼酎の近代化と同時に現れた奇跡の職能集団といってもいいでしょう。

今日の焼酎造りの礎を築いた黒瀬杜氏

明治31年に自家醸造が禁止されると、焼酎酒蔵の創業が相次ぐようになります。販売用の焼酎作りが始まったのですが、焼酎は伝統的に自家用で製造されていたので、酒質がバラバラ。酒質を販売用に見直す必要があり、杜氏は酒質を設計するという、焼酎の近代化に向けた重要な役回りが期待されるのです。

黒瀬杜氏はほとんどが親戚縁者でしめられ、一子相伝とよばれる伝承方法で代を重ねるごとに技術と知識が高まっていきます。蔵元ごとの酒質を設計して、個性あふれる焼酎造りに貢献します。
全盛期であった昭和34~35年には320人もの杜氏が活躍。当時の鹿児島の焼酎酒蔵の数は約170蔵だったので、ほとんどの蔵にいたことになります。

明治後期から昭和後期の焼酎造りにおいて多大な影響を与えた黒瀬杜氏こそが、今日の焼酎造りの礎を築いたといってもいいでしょう。

焼酎の近代化に貢献した黒瀬杜氏とは? 歴史から現在の活動までをご紹介の画像

昭和後期以降の黒瀬杜氏

黒瀬杜氏の技能は機械に移行

昭和後期には、黒瀬杜氏の数が急激に減少します。
昭和40年代に入ると機械化の波が焼酎業界にも押し寄せ、徐々に黒瀬杜氏の仕事を奪うことになったのです。
最初のインパクトは、自動製麴機。焼酎造りの工程で最も大切かつ難所といわれた「麹作り」は杜氏の腕の見せ所でしたが、河内源一郎商店が開発した機械に取って代わられます。麹作りの決め手になる温度や湿度は「匠の勘所」によって管理されていましたが、機械の制御によって誰でもできるようになったのです。

さらに、焼酎メーカーの「企業化」も黒瀬杜氏の出番を奪います。機械化によって大量生産を実現した焼酎メーカーは、杜氏を自社で採用するようになったのです。
本格焼酎メーカーは、どんどん規模が大きくなってきますが、黒瀬杜氏に依存した焼酎造りをしていてはノウハウの蓄積がありません。大学で専門知識と技術を習得した新卒を採用するようになり、黒瀬杜氏のような季節労働者の性質が強い職能集団は出番を失うことになったのです。

現在も、黒瀬杜氏は健在ですが、かつての役回りで活動しているのは数名というのが現状です。

新しい役回りで活躍する黒瀬杜氏

現在でも数は少なくなりましたが、新しい役回りで活躍する黒瀬杜氏が注目を集めています。休業していた焼酎酒蔵が復活する力になっていたのです。

昭和後期、鹿児島のいくつかの焼酎酒蔵は、休業状態になります。当時の焼酎といえば、南九州の「地酒」という立ち位置。急速に進む近代化の波に乗りきれない中、酒蔵を続ける上で大切な後継者は、後を継ぐことなく都市部の他業種へ就職。休業状態が続いたのです。

ところが、ロクヨンというキーワードが本格焼酎の人気に火をつけます。南九州の「地酒」だった本格焼酎が都市部を中心に人気が広がり始め、全国に知れ渡るようになり空前の焼酎ブームが到来するのです。
焼酎ブームを都市部で目の当たりにした後継者たちは地元に戻り、休業状態だった酒蔵の再興を目指したというわけなのです。

焼酎作りのノウハウのない後継者は、焼酎造りを黒瀬杜氏に依頼。黒瀬杜氏の長年培った経験と知識が、再興を目指す酒蔵の貴重な力になったのでした。

黒瀬杜氏が再興の力になった酒蔵として「萬膳酒造」や「八木酒造猿ヶ城蒸溜所」が有名です。

まとめの画像

まとめ

いかがでしたか。
焼酎の近代化とともに、奇跡のように現れた黒瀬杜氏。
今日の焼酎は黒瀬杜氏が礎を築いたといっても過言ではありません。

活躍を続ける黒瀬杜氏の技能の粋をゆっくり味わいたいものです。

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