
焼酎の歴史|江戸時代から大正時代にかけて“本格焼酎”はどう進化したのか
日本の蒸留酒・焼酎は、単なる「地方の酒」から、近代産業としての酒へと姿を変えてきました。
とくに江戸時代後期から明治・大正にかけては、酒税制度の改正、密造の横行、共同製造場の誕生、企業整理、そして甲類焼酎の登場など、焼酎のあり方を大きく揺さぶる出来事が連続します。
本記事では、焼酎の歴史を江戸〜大正期にフォーカスし、「家庭の酒」から「産業の酒」へと変貌していく過程をひもときます。
目次
焼酎の起源と日本への伝来
焼酎の存在が日本で確認できる最古級の記録は、1477年(文明9年)の沖縄とされています。
その後、蒸留技術は琉球から南九州へ伝わり、鹿児島・宮崎・熊本を中心に、米・麦・芋を原料とする焼酎文化が根づいていきました。
1964年(昭和39年)に行われた国税庁調査では、創業449年という焼酎蔵の存在も確認されており、本格焼酎の系譜がいかに古いかが分かります。
明治維新と酒造制度の激変|「誰でも酒が造れる時代」へ
1871年(明治4年)、明治新政府は太政官布告により、酒造株制度を廃止。
これにより、県に届け出て免許料を納めれば、誰でも酒造業に参入できる時代が始まります。
当時の酒税法では、焼酎はまだ独立した酒類ではなく、味醂や白酒と同じく「清酒類」に分類されていました。
新規免許料は10両(現在の約500万円相当)と高額でしたが、それでも多くの人々が酒造に参入しました。
自家用酒の禁止と「共同製造場」の誕生
やがて政府は酒税確保のため、
・1886年:自家用清酒の製造禁止
・1898年:焼酎を含む自家用酒の全面禁止
を実施します。
しかし南九州では、販売用の焼酎が圧倒的に不足し、密造が急増。
そこで各地に生まれたのが、部落単位で運営される“自家用焼酎の共同製造場”でした。
熊本・球磨地方では、税務官吏が製造量を巡回記帳していた記録も残ります。
また与那国島では、複数家庭の主婦が交代で麹造りと蒸留を行っていた事例もあり、共同製造場は「家庭の焼酎文化」を色濃く残した存在でした。
明治後期|市場化と焼酎産業の再編
鹿児島が“焼酎王国”と呼ばれる現在とは異なり、1900年頃まで市場に焼酎はほとんど流通していませんでした。
ところが明治30年代に入ると、「共同で造るより、酒屋から買った方が合理的」という消費意識が広まり、焼酎は次第に商品として流通し始めます。
この流れの中で、鹿児島税務監督局は焼酎業者に対し大規模な企業整理を断行。
結果、明治44〜45年の2年間で約70%の蔵が廃業しました。
当時は激しい批判も浴びましたが、この整理によって
・生産体制の近代化
・品質の安定
・経営基盤の強化
が進み、現在の本格焼酎産業の土台が築かれたと評価されています。
大正初期の混乱と技術革新
大正初期は、焼酎業界にとって激動の時代でした。
・需要増加による価格高騰
・1910年:新式焼酎(甲類)の誕生
・1914年:全国的な清酒腐造事件
・醪取焼酎の大量流通
などが重なり、焼酎市場は一気に拡大と混乱を経験します。
価格は急落し、多くの蔵が経営危機に直面。
この逆風の中で、生き残りをかけた技術改良・製法改革が進められました。
ここから本格焼酎は、
・衛生管理
・製麹技術
・蒸留技術
・貯蔵管理
といった分野で大きく進化し、江戸時代以来ほぼ不変だった製法が、近代的な酒造技術へと移行していくことになります。
まとめ|江戸の家庭酒から、近代蒸留酒へ
江戸時代の焼酎は、地域の家庭に根づいた生活酒でした。
それが明治の制度改革によって一度解体され、
共同製造場という過渡期を経て、
企業整理と技術革新を通じて「産業」として再構築されていきます。
この江戸〜大正期は、焼酎が
民間文化 → 課税対象 → 商品 → 近代酒類
へと変貌した、もっとも劇的な時代でした。
現在私たちが飲んでいる本格焼酎の背景には、この激動の数十年が刻まれています。
この記事を書いた人
SHOCHU PRESS編集部
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