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明治時代の焼酎とは?|酒税と制度に翻弄された“庶民の酒”の近代史

明治時代の焼酎とは?|酒税と制度に翻弄された“庶民の酒”の近代史

明治時代、日本の焼酎は大きな転換点を迎えました。
それは「近代国家の財源」として酒が位置づけられたことから始まります。

江戸時代まで、焼酎は各地の暮らしに根づいた酒でした。
ところが明治維新以降、政府の税制改革によって、焼酎は制度の中に組み込まれ、重い課税と管理の対象となっていきます。

ここでは、明治時代に焼酎がどのように扱われ、どんな変化を強いられたのかを見ていきます。

明治政府と酒税政策|焼酎は「重要な財源」だった

明治新政府は1868年(明治元年)、「商法大意」を発表し、封建的な経済制度の解体を進めました。
その中で酒は、土地税(地租)に次ぐ重要な国家財源と位置づけられます。

とくに目をつけられたのが酒造業でした。
すでに藩政時代から商業化が進んでいた酒造業は、「徴税しやすい産業」だったのです。

政府は明治元年、「酒造規則五か条」を定め、酒造には冥加金と鑑札(免許)が必要となりました。
その後も制度はたびたび変更され、酒造免許制と課税強化が本格化していきます。

焼酎に課された重税|「庶民の酒」への強い締め付け

1871年(明治4年)、政府は酒造株制度を廃止し、「免許鑑札制度」を導入します。
一定の免許料を納めれば誰でも酒造業ができる仕組みですが、同時に税負担は急激に重くなっていきました。

1878年(明治11年)には酒税は「醸造税」となり、焼酎には一石あたり一円五十銭という高額な税が課されます。

当時の税額は、
・清酒:一石一円(銘酒は三円)
・濁酒:三十銭
・焼酎:一円五十銭

とされ、焼酎は清酒よりも重い負担でした。

本来、焼酎は庶民の酒であったはずなのに、実際には貧しい層ほど重くのしかかる税制になっていたのです。

明治時代の焼酎生産|実は「清酒の時代」だった

明治初期の宮崎県の記録を見ると、焼酎は意外なほど少数派でした。

1873年(明治6年)の記録では、
・清酒の免許:202
・濁酒:146
・焼酎:わずか5
という数字が残っています。

さらに『日向地誌』(平部轎南著)によれば、明治中期の宮崎県では、焼酎を造っていた村よりも、清酒を造っていた村のほうが多く、生産量も約6倍でした。

つまり明治時代の南九州でさえ、主役はまだ清酒で、焼酎は決して中心的存在ではなかったのです。

明治時代の焼酎の造り方|農家の土間で造られていた酒

当時、焼酎は営業用よりも自家用として造られることが一般的でした。

製法はきわめて素朴で、
・蒸したサツマイモを臼で砕く
・水を加えて放置
・自家製の黄麹を加えて発酵
・「ツブロ」と呼ばれる簡易蒸留器で蒸留
という工程で、農家の土間でも造れる酒でした。

焼酎は、祝い事や祭り、正月など、暮らしと行事に結びついた酒だったのです。

日清戦争と酒税強化|自家製焼酎の終焉

1894年(明治27年)の日清戦争を境に、日本は富国強兵路線を強め、酒税は国家財政の柱になります。

1899年(明治32年)、ついにすべての自家用酒の製造が全面禁止されました。

これにより、焼酎も自家製が違法になります。

当時、宮崎県だけでも自家醸造をしていた人は3万5千人以上。
彼らは一夜にして「密造者」になりました。

焼酎と税金|価格の半分が税だった時代

当時の資料には、こう記されています。

・焼酎一升25銭
・税金 一升13銭
・米 一升10銭
つまり、焼酎の価格の半分以上が税金でした。

焼酎は「安酒」どころか、
下層階級にとっては簡単に飲めない酒だったことがわかります。

密造と共同醸造|近代焼酎蔵の原型

自家製が禁止され、焼酎が不足すると、
南九州では人々が集まり、共同醸造を始めます。

数人から数十人単位で焼酎を造り、
それがやがて営業目的の酒蔵へと変わっていきました。

ここに、近代焼酎蔵の原型が生まれます。

明治時代の焼酎とは何だったのか

明治時代の焼酎は、

・国家財政の対象となり
・重税を課され
・自家製を禁じられ
・密造と取り締まりの時代を生きた酒
でした。

しかし同時にこの時代は、
近代焼酎産業が形づくられていく出発点でもあります。

庶民の土間から、制度の中へ。
明治時代は、焼酎が「近代の酒」へと姿を変えていった時代だったのです。

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