焼酎の歴史を解説します | 蒸留の起源から日本に伝来するまで
普段何気なく飲んでいる焼酎。
日本を代表する蒸留酒なので、古来から伝わるお酒と思いきや、日本に伝来したのは16世紀といわれています。
世界的にみても、蒸留酒が飲まれるのは12世紀から。
蒸留酒に必要な蒸留技術が発展するのに時間を要したためです。
今回は、焼酎の歴史として、蒸留の起源から日本に伝来するまでをご紹介します。
焼酎の歴史
蒸留の起源は、紀元前3000年のメソポタミア文明といわれています。花やスパイスを蒸留した道具が遺跡から発掘されているためで、蒸留技術はその時代から次第に発達したといわれています。
蒸留という言葉を世界で最初に使ったのは、アリストテレス。
『気象論』という論文の中で「海水は蒸留によって飲料にかえることができる」と記述しています。また、「ワインも蒸留することができるだろう」と、なんと蒸留酒であるブランデーの登場を示唆しているのは有名な話。
蒸留は、その後もアリストテレスの教え子であったアレクサンドロス大王によって引き継がれます。アレクサンドロス大王が建設したアレクサンドリアでは、錬金術の研究が活発となり、重要な道具の一つとして蒸留機が使われたのです。
当時の蒸留機は、円底フラスコの口に空冷用の長い導管をつけたキャップをかぶせた原始的なものでした。
7世紀に入ると、いよいよ蒸留技術が世界に伝播されます。
641年にアレクサンドリアを占領したアラビア人は、東はインダス河から西は大西洋にいたるまで領土を広げます。勢力を拡大する間に、時間をかけて蒸留技術も世界に知れ渡るようになったのです。
アムビックといわれていた蒸留器は、アラビア語の冠詞アルをつけて、アランビック(al-anbiq)として呼ばれるようになりました。
今でもその名残は世界でみられ、日本古来の蒸留器を「らんびき(蘭引)」と呼ぶのは,アランビックが転じたためといわれています。
蒸留技術が世界中に伝わると、いよいよ蒸留酒の誕生です。
蒸留酒は、蒸留技術と結びつきの深い錬金術師が作り出したといわれています。
1250年、フランスの錬金術師アルノー・ド・ヴィユヌーヴは「ワインやワインのしぼり粕を蒸留すると、ワインの最も精緻な部分が抽出され、これには生命を永らえさせる不思議な効力がある。まさにeau de via(生命の水)と呼ぶにふさわしいものだ」と書き残しています。
ワインを蒸留して作ったお酒は、火を近づければ燃え上がり、飲めば病人に生気が宿るため、中世の人々には「生命に火をともすもの」と映ったことでしょう。
14世紀に蒸留酒は広く普及するようになります。きっかけは、ヨーロッパで発生したペスト。14世紀中頃に猛威を振るったペストは、ヨーロッパの総人口25パーセントの人々を死に至らせたといわれていますが、「生命の水」である蒸留酒を飲めばペストにかからないと信じられたのでした。
15世紀に入りヨーロッパ大航海時代を迎えると、蒸留酒は本来である飲み物として知られるようになります。ヨーロッパから新大陸に向かう長い航海には、ワインより蒸留したアルコール度数の高いブランデーの方が向いているとされ、新世界に好んで運ばれたのです。
焼酎の起源
蒸留技術は、ヨーロッパだけでなくアジアにも伝わります。
アジアへの伝播は、インドから雲南地方を経由して中国に広がったといわれています。
中国において最初に蒸留酒が確認されたのは1330年。忽恩慧が著書である『飲善正要』において「阿刺吉酒」という蒸留酒が南方から伝えられたと書いています。ちなみに、「阿刺吉(=アラキ)酒」の語源は、汗をかくという意味の”アラック”というアラビア語。
蒸留技術が、中国で改良されたことによって、アジア向けの蒸留酒の製造が可能になります。中国に伝来するまでは、ヨーロッパで使用されたフラスコ型の蒸留機で蒸留されていましたが、麹を使ったお酒作りに適するように蒸留機が改良されたのです。
中国で改良された蒸留機は、タイなどの東南アジアや朝鮮半島へと広がっていくことになります。
焼酎の伝来
焼酎が、日本の本土へ伝来されたルートは、下記の5つの説があげられます。
①中国直接説
②朝鮮経由説
③倭寇媒介説
④西洋直輸入説
⑤琉球経由説
それぞれの説にもっともらしい逸話がありますが、今では、琉球経由伝来説が有力とされています。
『李朝実録』によると、1477年の琉球では焼酎が飲まれていたといいます。琉球を漂流した朝鮮の済州島の人が「色黄にして味焼洒」を歓待された際に振る舞われた事実として記述。これが琉球における最初の焼酎に関する記録といわれています。
琉球経由説
蒸留技術が沖縄へ伝来したのは、交易が盛んだったタイからです。
1534年、陳侃(ちんかん)という中国の役人が記した『使琉球録』には琉球(沖縄)に伝えられた最初の蒸留酒は、タイの焼酎の「ラオ・ロン」であったと書いています。
裏付けとして、東恩納寛惇氏は著書『泡盛雑考』の中で、「昭和8年頃、シャムから持ち帰ったラオ・ロンを調べたところ風味、香りとも泡盛の古酒に匹敵し、しかも製造方法が首里の酒家でおこなわれる造り方と全く同じであった」と述べています。
1569年、タイとの交易が途絶えてしまいますが、この事は、琉球内の製造に力を入れるきっかけになります。
琉球は、当時の明国から冊封使を受け入れることが多く、大人数で長期間滞在する彼ら接待用のお酒は、タイのお酒を輸入して一部を賄っていました。しかし、タイとの交易が途絶えると、そのお酒が間に合わないため、琉球内の製造を強化する事になったのでした。
1609年(慶長11年)に琉球が薩摩の支配下に入ると、薩摩の接待や江戸への貢納が加わります。
一方で、薩摩との交流が活発になったことで、現在の泡盛の形が作られます。それまでの麹原料を、大陸由来の餅麹から薩摩の酒造りを参考にして散(バラ)麹に変えたためです。それによって、泡盛特有の味わいと香りが決定づけられることになりました。
焼酎が、日本の本土へ伝来されたルートとして、琉球説が有力である理由の一つは、この散(バラ)麹にあります。その他のルートでは、日本固有の麹である散(バラ)麹を使った焼酎作りが普及した説明がつかないからです。
一方、薩摩藩は徳川幕府の要人達に琉球の特産品である泡盛を贈るようになったため、泡盛とともに蒸留技術も広く日本国内に広がるようなっていったのです。
1546年(天文15年)、ポルトガル人のジョルジュ・アルバレスが、鹿児島県指宿郡の山川町に滞在した際に、「日本報告」というレポートを師であるフランシスコ=ザビエルに送っています。その中には、「飲物として、米からつくるオラーカおよび身分の上下を問わず皆が飲むものがある」と日本で最初の焼酎に関する記述があります。この当時には、蒸留技術が普及していたと考えられています。
まとめ
いかがでしたか。
蒸留技術は、紀元前3000年の昔に発明されたのですが、今日の焼酎へと形を変えるまでには、長い時間と多くの人が関わってきたのですね。
今では、コンビニやスーバーで手軽に手に入る焼酎。
今夜は、感謝を込めてゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。
この記事を書いた人
SHOCHU PRESS編集部
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