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焼酎の飲み方が多様な理由

稲作には不向きなエリア
桜島を南端とする鹿児島湾の北半分は巨大な噴火口です。
一般的に「姶良(あいら)カルデラ」と呼ばれており、桜島は巨大な噴火口が顔を出した部分に過ぎません。
氷山の一角ならぬ、火山の一角。

約 2 万 9,000 年前(!)に大噴火が発生します。そのため鹿児島県の80%は、シラスと呼ばれる火山灰土壌が覆い尽くすことになり、稲作には不向きなエリアとなってしまいました。
有史以来、慢性的なコメ不足が続きます。

サツマイモの伝来
サツマイモの原産地は、メキシコからグアテマラにかけての熱帯アメリカです。
アメリカ大陸を発見したコロンブスによって、ヨーロッパにもたらされたのが1492年。
アジアへは、スペインの植民地であったフィリピンを皮切りに、中国の福建と渡り琉球に到達。1604年(慶長十年)のこと。

その後、薩摩への伝来は1698年(元禄十一年)。琉球王の尚貞から種子島弾正久基へ贈られ、これを種子島の石寺野で栽培したのが始まりとされています。

救荒作物のサツマイモ
そのサツマイモ。
稲作に不向きな荒れ地でも育つ、ヒルガオ科の熱帯性植物。

シラスと呼ばれる火山灰土壌も気にすることなく栽培できる。
有史以来、慢性的なコメ不足が続くこのエリアにとって、奇跡のような植物なのでした!

さらに、凶作時にも強い。

1732年(享保17年)の西日本諸国に猛威を振るった享保の大飢饉。
薩摩藩にあっては,サツマイモのおかげで、ほとんど影響を受けなかったと言います。

当時の将軍徳川吉宗は,長崎出身の深見新兵衛から薩摩藩の様子を聞かされ、全国への普及を計画。

地元では、唐芋(からいも)、甘藷(かんしょ)とよばれていましたが、飢饉の救荒作物として、サツマイモという呼称も全国的に広まったのでした。

始まった焼酎造り
16世紀中頃、焼酎造りは薩摩藩が、泡盛造りを真似て始めたといわれています。
現在の鹿児島県には、清酒蔵は一軒もないですが、当時は酒といえば清酒しかない時代なので、いくつか清酒蔵はあったようです。
ただ、わずかに収穫されていたコメを酒米に回すのは、藩も忸怩たる思いがありました。

一方で、焼酎は原材料を選ばないので、黍、稗、粟などの雑穀類で代用はしていたようです。
ただし、製造の効率が悪いという欠点がありました。

そんな中、藩は、原材料を選ばない焼酎の特質を着目し、サツマイモ焼酎造りを奨励しました。そして、なんと。
米を節約してくれるならば、と芋焼酎の税金を免除したのです。
そうすると当然、芋焼酎造りが盛んになったのでした。

焼酎は、庶民のお酒
日本において、清酒造りは室町時代から始まったとされます。
貴重なコメが原材料で、今でいう酒税も徴収できたので、為政者が管理するようになりました。

焼酎は、どぶろくと同じ扱いで、庶民のためのもの。
清酒造りほど管理徹底はされていませんでした。

ところで、焼酎は蒸留酒でもあります。
西欧のウイスキー、ブランデーなどの蒸留酒は、清酒と同様に為政者が管理してきました。

西欧の蒸留酒は性質として、為政者でないと管理が難しい。
というのも、西欧の蒸留酒は熟成という工程が必要で、庶民には、樽を長期保管する時間と場所がなかったのです。

焼酎は、庶民が管理発展させてきた、世界的にも珍しいお酒(蒸留酒)なのです。

お湯で割り、直燗、水割り(前割り)、ストレート、ロックなど飲み方の多様さの理由は、そういった点にあるのです。

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