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【焼酎の歴史】明治時代の焼酎

明治の酒税

明治時代の焼酎を紹介するには、当局が定めた酒税を抜きにしては語れません。
奈良時代に販売用の酒造りは始まりますが、当時から当局が関与します。
酒造りと当局は、切り離せない関係なのです。

江戸時代。
太平を謳歌し始めた徳川治世の初期、四代目将軍家綱の時代の1657年(明暦3年)に、酒造株が制定されます。
晴れて(?)税金の上納が、製造者へ義務づけられるようになりました。
ここでのポイントは、税金の義務づけとともに、製造量の規制をかけるようになったこと。
あまり酒を多くは造らないように、という意味です。
いろいろ理由はありますが、お金(税金)より規制を重要視したのです。

その後、明治期に入り、倒幕を果たした藩閥官僚政権は、1657年(明暦3年)以来続けてきた、酒造株制度を廃止します。
新たに、1871年(明治4年)の太政官布告によって、県知事に酒造免許を申請して免許料を徴収するようになります。
そして、免許料を納めれば、誰でも酒を造れるようにしました。
つまり、免許料といて、製造者への上納はそのままに、生産量の規制は、撤廃したのです。
江戸時代の酒造株の話をしたのは、生産量の規制についての比較からでした。

生産量の規制を撤廃した理由とは

ここから、明治期に焼酎がどのように扱われていたかを紹介します。
「【甲類乙類とは】甲類と戦争の意外な関係」でも紹介した通り、倒幕後の藩閥官僚政権には、近代化に向けて財源の不安がありました。

確実に見込めたのは酒税で、明治7年の酒税の全工業に対する徴税率は、16.4%!
殖産に勤しみますが、収税の即戦力としてままならない。
ならばと、酒税を死守、あわよくば伸ばしたい。
そんな懐事情なので、規制どころか、どんどん酒造りを奨励したのです。

焼酎は”マンマの味”

ここからは、焼酎製造の盛んな鹿児島県にフォーカスして話を進めます。
江戸時代から明治中期にいたるまで、焼酎は主に自家用酒として造られていました。
東北地方のどぶろくと同様です。
焼酎は各家庭で思い思いに自由に造られていました。
どれくらい造られていたかと言うと、鹿児島県下の酒造免許の取得者は、数万人以上だったといわれます。

すごい数ですよね。

ほとんど世帯数、ではないでしょうか。
鹿児島県においては、焼酎は”マンマの味”だったようです。

製造方法も、どんぶり製法で一次仕込みは一回のみの、”ツブロ”式蒸留機で蒸留。
現在と比べてかなり簡易なものですが、そもそも蒸溜を家庭でするのが驚きです。

目をつけられた自家製酒

その後、いくつか税制の改革は続きますが、転機が訪れます。
日清戦争で国の財政が苦しくなると、自家用酒を野放しにしておく手はないと、当局は目をつけます。

そして、とうとう1899年(明治32年)1月に、自家用焼酎の製造を全面的に禁止します。

これには、人々は困りました。
なんせ、焼酎愛好家にとって、焼酎は造るもの。造れない以上、飲めないわけですから。
鹿児島では当時、まだ販売目的で製造している業者は少なかったのです。
販売目的といえば、寺社への奉納用の製造者がいたくらい。

すると、人々は密造を始めました。
もともと製造に必要な機器は揃っているわけですから、容易です。

一方、当局も取り締まりを強化します。
一悶着も多かったようです。
それはそうですよね。
その頃の人々にとって、焼酎は唯一の心の慰めでしたから、酒造りの締め出しは、大きな反感を買うことになったのは当然です。

しばらくすると、当局は対策を練ります。
結局は、妥協し、人々の不便を解消し密造をふせぐために、自家用焼酎の共同製造を認めることになりました。
当局の勧奨によって、各地の部落ごとに数名ないし数十名を単位とする共同製造場が実現することになったのです。

営業目的の製造場が漸増

この応急策は、成功したかにみえました。

しかし、この共同製造も需要者の不満を解消するにいたらず、人々の市販焼酎をもとめる機運が次第に高まりました。
共同製造自休が、なにかと面倒なうえに、家庭内での飲み過ぎをまねいて不経済、むしろ必要に応じて販売店から焼酎を購入したほうが、得策だとする風潮が強まったからです。
この辺りの変化は、明治も後期に入り、職業の選択の自由、移動の自由などの近代思想の導入によって、人々の意識が向上したからだと思います。

このため、人々は、共同製造場に参画するのを止めます。
共同製造場は減少し、営業目的の製造場が漸増していくのです。
実際、明治34年には、鹿児島県下に3,696の製造場があり7455キロリットルの焼酎をつくっていましたが、10年後には製造場の数は約3分の1に減り、逆に生産量は2.7倍に増えました。

明治後期の創業が圧倒的に多い理由

ここで、余談です。
共同製造時代のはじまった当初、市販される焼酎は、米焼酎だけでした。
飲まれる酒の35%が焼酎という、焼酎天国の鹿児島県ですが、売られるようになるまで、自家用焼酎はあっても、市場に焼酎は出まわっていなかったのです。

ちょっと意外ですよね。

わざわざ外で買うという発想がなく、翻って他人のために造るという発想がなかったようです。
例外として、鹿児島県の大隅の一部で製造者がいたくらい。

そこで、明治33年ごろ、日置郡伊作地区(現在吹上町)で市販用の芋焼酎の製造がはじまり、鹿児島市でも取り扱い出すと、これが大好評。
すると、我も我もと、刺激されて、市内のいたるところで芋焼酎の製造・販売が盛んになったようです。

これが、芋焼酎の”商品”として人々が出会った、馴れ初め。

そして、このことは、ある疑問の答えでもあるのです。

それは、焼酎の酒造場は、500年の歴史があるにもかかわらず、明治後期の創業が圧倒的に多い、ということ。
清酒酒造場は、江戸時代の創業が多いのにもかかわらず、です。

焼酎史上画期的な大改革
明治も後期になると、立て続けに戦争が勃発し、当局として火急の事態として、大幅な財源の確保が必要になります。

そこで、またまた焼酎が、目をつけられるわけです。
焼酎史上、最も画期的な大改革と言われているほど。

その主役を演じたのが、後の逓信大臣、当時の鹿児島税務監督局長であった勝正憲氏。
氏は、明治44年長崎税務監督局長から鹿児島に赴任。
ただちに改革に着手。

その対象になったのは、
① 将来発展の見込みのないもの
② 性行不良なもの
③ 交通不便な僻地に製造場をもつもの

勝正憲氏は、せっせと酒造場に足を運び、酒造場の当主を説得し、自発的に免許を返上させました。
当時の社会でもこれは大変なことで、鹿児島新聞紙上でもさんざん叩かれたようです。

炎上騒ぎになったわけです。

その結果、明治44~45年の2年間に業者霎者の70%が廃業し、485社となりました。
それに比べ、南九州4県の明治44~45年間の平均廃業率は29%。

勝正憲氏の改革はいかに苛烈だったことが伺えます。

ただこれは、既得権をバックにしたゾンビ企業の延命をなくし、市場を健全化させるという、至極真っ当な業界改革なのでした。

そして、この大改革を受け入れる許容の深さが、大正以降の焼酎ブームに代表される、大躍進の下地に繋がったのでした。

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