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【焼酎の歴史】 | 東京の焼酎の歴史

伊豆諸島といえば、東京都。
実は、南九州以外のエリアで、芋焼酎が盛んで有名な産地なのです。
東京が、芋焼酎の産地になった歴史をご紹介します。

八丈島の「島酒之碑」の画像

八丈島の「島酒之碑」

伊豆諸島のうち、最初に焼酎造りが伝えられたのは、八丈島。
その八丈島に焼酎を伝えたのは、丹宗庄右衛門(たんそうしょうえもん)といいます。

八丈島にある八丈町には、島酒之碑という記念碑が、酒瓶に囲まれ建てられています。
その裏面には、以下の碑文が記してあります。

丹宗庄右衛門翁ハ薩州出水郡阿久根村ノ産デ、嘉永六年密貿易ノ罪二ヨリ八丈島二流サレ、明治元年ノ赦免マデ謫居スルユト十五年、初メテ八丈島二焼酎ノ製
法ヲ伝エタ。此ノ島酒タルヤ真二芳醇、一酌忽チ胸襟ヲ洗ッテ陶然万累ヲ忘レ、マサ二酎界ノ王者デアル。茲二碑ヲ建テテ翁ノ徳ヲ頌シ、天ノ美禄ヲ酔郷ノ賓ト共二礼讃スル。
昭和四十二年八月二十八日 八丈島観光協会
八丈島酒造組合

八丈島で焼酎が造られるようになったのは、明治元年の15年前、つまり1853年。
その他のエリアと比べて、古い歴史ではありません。
しかし、その伝来方法は、八丈島ならではなので注目です。

密貿易の開始の画像

密貿易の開始

丹宗庄右衛門(1812~1875)は薩摩国阿久根(現鹿児島県阿久根市)出身。
丹宗家は、古くから回漕問屋として薩摩藩主島津家に仕えており、苗字帯刀を許された名門です。
庄右衛門が、丹宗家9代目当主になったのは、幕末期。
その頃の薩摩藩の財政は、芳しくありませんでした。

時が経つにつれて財政が逼迫するようになると、その建て直しとして薩摩藩は密貿易を開始します。
具体的には、海事関係の商人を保護していたようです。

当時の庄右衛門は藩内で、最も信頼される地位に置かれていました。
実際、最も大きな収入源を担う役割を演じていたそうです。

一方、徳川幕府にとっても、300年の太平の夢が黒船によって破られ、倒幕へ向けた動きも日に日にまして社会が流動的になっていった時勢。
徳川幕府も、財政は逼迫し始めます。
それだけに、その対応策に腐心していました。

捕らえられた庄右衛門

そんな時勢の中、幕府は薩摩藩が禁制を犯して、密貿易していたことを知ることになります。
結果的に倒幕の主だった勢力になった薩摩藩に関して、日頃から幕府は目を光らせていたのです。
何とかこれを取り抑えようと、隙を伺います。

一方、庄右衛門もこの幕府の姿勢を察知し、そろそろ手を引かねばならぬと思った矢先のこと。
1853年(嘉永6年)、江戸に回した千石船もろとも庄右衛門は、捕らえられてしまいます。
即刻、庄右衛門には、八丈島遠島が言い渡されました。

庄右衛門は、薩摩藩において身分の高い役人とも顔見知りで、密貿易の儲けもあって富裕な生活を送っていました。
今でいう、セレブだったワケです。
そんな庄右衛門にとって、鳥も通わぬような孤島に流されたのですから、不自由極まりなかったことに違いありません。

その中でも一番不自由なのは、お酒が飲めないこと。

庄右衛門が、不自由を感じた3つの背景の画像

庄右衛門が、不自由を感じた3つの背景

庄右衛門が、八丈島でお酒が飲めなくて不自由を感じたのは、3つの背景があります。

1.庄右衛門が焼酎の国である薩摩の出身であったため
2. 流罪人であったため
3. 八丈島に禁酒令が布かれていたため

1と2については、当然のことです。
ただ、注目ポイントは3。
当時の八丈島では、禁酒令が布かれていたのです。

いつの時代、地域であっても、冠婚葬祭や節句などのライフイベントにはお酒は必要なもの。
長きにわたって禁酒を強いられた当時の八丈島の島民は、むしろ彼以上の被害者だったといえます。
ただ、お上のお布令とあれば、これに抵抗することもできず、わずかに蔭でその悪政をなじる以外に手はありませんでした。

そんな中、庄右衛門は、禁酒令の理由を島民に尋ねます。
理由は、この時代においては、どの地域でも同じですが、食糧事情にありました。
食糧事情の悪いこの島で、大量の穀類をつぶして酒を造ることは、食糧事情悪化に拍車をかけるためである、ということが分かったのです。

庄右衛門の機転の画像

庄右衛門の機転

八丈島で造られていたお酒というのは、言うまでもなく濁酒(どぶろく)。
玄米に粟麹と水を加えて、濁酒は造られていました。

庄右衛門は、心ひそかににんまりとします。
玄米や粟などの穀類を使わなければ、お酒を造ってもよいかと確認します。
一番やっかいな役人にも、念を押して伺いをたてたといいます。

すると、穀類を使わずに酒ができるものなら造ってもかまいはせぬ、と突き放したような返事が返ってきました。

庄右衛門は、早速、島民に呼びかけてさつまいもを供出させます。

さつまいもは、当時、全国各地を襲っていた飢饉から人々を救う救荒作物だったのです。
そのため、幕府は、さつまいもの栽培を奨励しており、八丈島でも栽培されていたのです。

【焼酎の歴史】さつまいもの伝来ルート

庄右衛門が出身の薩摩は、さつまいもが特産品で、さつまいもを使った焼酎造りが盛んな土地。
故郷での知見を活かし、お得意の焼酎製造に取りかかったのです。

八丈島を席捲の画像

八丈島を席捲

濁酒以外の製造法を知らない島民にとっては、庄右衛門の製法は信じられるものでありません。
しかし、その信じられないことが余りにもすばらしい姿で、実現したのです。

それは、清水のように澄んでいる。
次にはそのアルコール度数が高く、飲み口がすがすがしい。
さつまいもが原料なので、禁酒令に違反しない。
しかも量産が可能。
その後、島民は競って庄右衛門に製法の手ほどきを請ったといいます。

芋焼酎はあっという間に八丈島を席捲し、島には百花縁乱の明るさが戻ったのです。
そして、当然のことのように、この天の美禄を八丈島にもたらした庄右衛門は、神様並みの尊崇を受けたのでした。

八丈島を詳細に記録した「八丈実記」という本に、このことが記されています。

「衆人これを習うて、五村の大益を得たりと、賞歎せざる者なし」
-引用 : 「八丈実記」, 近藤富蔵, 緑地社,1972年

「島酒」として発展の画像

「島酒」として発展

庄右衛門は、明治元年の赦免まで15年間を八丈島で過ごしました。
その間に鹿児島から、焼酎製造に必要な蘭引(らんびき)などの器具購入や、故郷阿久根方面から焼酎製造に適する芋種を導入。
八丈島の焼酎の健全育成を、促したのでした。

今でも八丈島には、八丈興発(代表銘柄「情け嶋」)、八丈島酒造(「島流し」)、樫立酒造(「島の華」)、坂下酒造(「黒潮」)、磯崎酒造(「黄八丈」)の酒蔵があります。

八丈島以外の伊豆諸島でも、大島、新島、神津島で芋焼酎が造られており、「島酒」と呼ばれます。

島酒のまろやかな芳香にファンはふえはじめ、観光地としても栄えている伊豆諸島の土産品として人気を博したのでした。

まとめの画像

まとめ

いかがでしたか。
東京が、芋焼酎の産地になったのは、鹿児島出身の商人の機転によるものだったのです。
今日は、島酒の歴史に想いを馳せつつ、豊かな香りに包まれてみてはいかがでしょうか。

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